そのまま死に至ってしまう渇望だけがある
- 私は常に全ての時間をやり過ごして、耐え忍んで生きてきた。授業も耐え忍んできたし、労働も耐え忍んできたし、最近は、楽しい時間すら耐え忍んでいる。(意味不明だ。私も自分で意味不明だと思う。でも最近、楽しくアニメを見てる最中とか、楽しく友達と遊んでいる最中に、なんとなくの渇望が心の片隅に出現して、この時間が終わったらもっと楽しい時間が来るはずと思ってしまう) 時計を見ながら、早くこの時間すぎねぇかな〜って思ってる。この時間が過ぎたその先、やり過ごしたり耐え忍んだ先には何かがあるはずと思ってるけど、日常生活の全てをやり過ごし耐え忍んでいるから、まだその先の時間には出会えてないです。一体何があるのだろう。どの時間も思考せずに生きてるから未来に根拠のない希望を抱けてしまう。でも現在に満足できない人間はきっと未来も満足できない。ありもしない未来を望み続けて生きる。このありもしない、たどり着けない未来への夢想が私の幸せなのかもしれない。あほくさい
2021/09/26
それは崇高な欲求
- 夢で出てくる世界、ぼーっとした時に想像する世界、それらは何か不完全な感じがして、ずーっと潜って考えていくと根底で何か繋がっていて、でもその何かの正体は分からなくて無性に泣き出したい気持ちになる。いわゆる集合的無意識というやつ。皆にもあるんだろうか、みんなのそれとわたしのそれは一緒なんだろうか。この多様性が正しいとされる「みんなちがってみんないい」時代で、私は誰かと異なる自分におびえる瞬間がある。自分らしく在りたいけどみんなと一緒がいい。このアンヴィヴァレントな欲求に苦しむことを社会に求められている。
心理学にネガティブケイパビリティという概念がある。不安定さ、答えのない問題に耐える力。両価的な地獄で生きることを求められる現代、それは私にとって生きづらい時代だ
2021/07/23
誉れの墓地
- ここ数ヶ月、私は私の感情を言葉にしようと、何度も何度も文章を書いては、消し、書いては、消し、それだけを繰り返してきた。今も心を全く文章化できなくて苦しいです。
みなさんは、碇シンジを見てどう思いましたか?碇シンジはあの映画の最後で死にました。アイコニックな苦悩の象徴。私たちの苦しさを代弁してくれていた彼は、自分のやるべきことと向き合って、頑張って、戦って、そして死にました。みんなはどう思ったんだろう。まだ、私はうまく言葉にできないです
2021/06/12
一つピアスを閉じて、一つ愛が終わったことを確認する
- この世は私にとって上手く生きれない世界だけど、私が死ぬには大袈裟で、死にきれない世界。人生とか、死ぬまでの暇つぶし。それくらいの感覚で今日も明日も1ヶ月後も半年後も1年後も10年後も生きれたらいいね。無理しなくて大丈夫。頑張らなくて大丈夫
2021/02/03
I saw you in heaven.
- 誰かの日常や誰かの考えを、自分の生きる根拠にしてはいけないんだろうか。「あの人もこうだから、私もこうでいい」そう言う思考回路を何度も繰り返して20年以上も生きてしまった。自分の行動に自分でちゃんと責任を持てたこと、あるかな。こんなんで社会に出て大丈夫なのかな。今は遠くの地にいる母が口癖のように毎日私に言っていた言葉「そんなんじゃ社会で通用しないよ」もはや呪いの言葉、今も私を苦しめてる
2021/01/20
不穏な悲鳴を愛さないで
- 気がついたら1年経ってた。去年の夏頃から作ってたサイトが冬頃に突然消え、また作り直して早1年。オナニーの塊を読み返してみるけれど、オカズが同じものばかりで笑ってしまう。さっき配信で「性癖は生まれ持ったもので変化しませんからね」と言っていたのはどこの委員長だったか。オカズの内容は変わらないし私の悩みのテーマも永遠に変わらないのであった。
多分1年後も10年後も50年後も同じような感情を、体裁を変えただけで胸に抱き続ける
2020/12/04
気づけばルサンチマンの連続体になり
- もはやこの令和の世でゼロ年代の残留物となった私は、いつまでも自分がもう主役でないことに(ただの『主役』ではなく『ゼロ年代創作物の主役』でないことに)気づけないままでいる。碇シンジにも涼宮ハルヒにもなれなかったし、というか令和の時代の方がそれを求めてない。完全に全て過去だ。気付きたくない。私の主役はとっくの昔に終わってしまっている。気付きたくない。主役の魂ははいつだって生熟に宿る。生熟の終わりは主役の終わりで、主役の終わりは物語の終わりで、それは死だ。私の物語は私にあと何十年も亡霊を続けろと?酷だな世界は。碇シンジも涼宮ハルヒも生熟後が描かれていないじゃないか。私は一足先に死に突入してしまったよ。あなた達も早くきてね。あの時代の象徴ともいえる存在であったあなた達の死は、あなた達のようになりたいと思っていたのに死んでしまった私の希望だから、楽しみにしています
2020/11/23
恋の運命は 愛の証明は
- 遺書の最後は、幸せになりたかった私でした!
2020/11/12
I love you
- ピアス開けたら運命変わるか?
2020/11/07
もう迷わないで
- やっすい感情ばかりのインスタグラムに気持ち悪くなる。お前らの感動とか、悲しみとか、楽しさって、本当に本当に薄っぺらいんだよ。バカが。でもそうやって他人の感情を勝手に決めつけてる自分こそが一番軽薄で浅慮だ。他人の感情にケチをつけて自分の方が優れているって思い込むの、一番愚かだ。比較しないで生きれたらどんなに楽か
2020/11/05
君の呼吸を知るために未来の根を切っても構わない
- サブスクに入れたい曲と、入れたくない曲がある。一度サブスクに入れてしまえば、自分のスマホの中に入れてしまえば、それはもう自分のものになる気がする。そうじゃなくて、毎回ちゃんと検索して聞きたい曲がある。何もしなくても適当に再生していたら流れてくるサブスクに入れたくない、自分のものにしたくない曲。ちゃんと毎回自分で見つけ出したい曲。消耗したくない曲。忘れたくない何かの感情を常に私に思い出させて
2020/10/15
約束された未来なんてない
- 器用に生きることはできるんだけど、そのためには膨大な努力を要するから、結局は生きるの向いてない。無意識のように気楽に生きれる人が羨ましい。私は、色々気を使って、頑張って、無理をして、やっと健常者に近づける。何も知らない人からみたら、すごく生きやすそうに見えるかもしれないけど、そんなことない。他人と自分を騙し、誤魔化しながら、その場凌ぎで生きている。いつ崩れるか分からない均衡の上でもがいてるんだ。死にそうだ。助けてくれ
2020/10/13
朝まで回し続けて
- ここ数ヶ月、社会では普通や日常の定義が揺さぶられていた。変化に弱い人間なので、何が怖いと言うわけではないんだけど、苦しさと自己嫌悪にまみれていた。でも思ったより世間のみんながちゃんと生きていて焦る。私は何してんだ。みんなはちゃんと生きている?ここは生きやすい場所になっている?世間のみんながそれぞれ持っている光と比較して、たぶん私たちの光は強くない。か細い光を繋げていくことが生きていくことなら、あまりにも大変な作業だわ。苦しい
2020/09/24
There is nothing I can do for you
- Lainの登場人物は、なんというか気持ち悪いというか、居心地が悪い。(レイン含め)
私は個人的にアニメ版レインみたいに自己主張のない人間があまり好きじゃない。彼女に自己主張がないのは物語の根幹に関わることだから仕方ないけど、でもこういう人いるよな、って不思議なむず痒さを覚えた。私なら友達になれない
でもレインには親友がいた。アリスというその子は内気なレインを事あるごとに気遣うんだけど、私にとっては彼女の気遣い方も気持ち悪かった。気遣いというよりはアリスの思うレイン理想像の押し付けのような気がした。優しさというよりは彼女の自尊心を満たすだけの虚しい自慰のような気がした(おそらく意図してそのようなキャラクターに描写されていることは分かっている)
Lainという作品は、突拍子もない難解なストーリーだし、哲学的なメッセージも沢山ある。ネットで考察しているような人達みたいなご立派な論はないし、それを文章化する才能もない。私はただ漠然とレインの気持ちをなんとなくわかってしまっただけだった。物語の途中までは、レイン可哀想、レインのことは好きじゃないけど、私が彼女のそばにいたらアリスよりもっと上手く気持ちを汲み取ってあげられるのに。そう思ってたけど、レインは結局アリスをちゃんと選んだ。どこまでもいい子だ。多分アリスが私だったら、選んでもらえなかっただろう。アリスの、他人の親切をうがっているような、こんな私だったら。当事者同士が納得しあっている関係なのに、それを外野から勝手に考察して、2人の思いは真には通じ合ってない!欺瞞に満ちている!と、そんなことを、
思ってしまう私は
2020/07/08
歪みの正体
- 裸眼のひとは羨ましい。帰宅してコンタクトレンズを片目だけ外して世界を見るとすごく気持ちが悪い。両目とも外すと世界は全くぼやけてしまう。何もわからない。なにも。部屋着に着替えて雑に髪の毛を結い、メガネをする。でももう8年もレンズを変えてないから、細部までは見えない。世界の細部まで見えない。世界の大体の輪郭しか見えない
普段はいつも、コンタクトレンズをしている
2020/07/08
すぐに他力本願で幸せになろうとするな
- 生理が終わっても、股から液体を垂れ流し続けている。生理が終わっても、子宮の存在を感じる。生理が終わっても、ちゃんと生きる為の活動をすることがしんどい。
気持ち悪い日が続くね
2020/07/04
主客未分
- 自分の感情を言語化しないことは、甘えなんだろうか。自分の中に漠然とした気持ちだけが残ることは、おかしいことなのだろうか。たまにふと、理由もなく心がソワソワして苦しくなることがある。嬉しいのか悲しいのかも分からなくて、でも心は確実に揺さぶられていて、何も分からないのにその心が揺さぶられる感覚だけは確かにあって、そして涙が出る。
感情を言葉にすることは理由を作ることだと思う。理由を作れば他人は(納得するかどうかは別として)理解できる。理由がないと他人は何も理解してくれなくなる。放棄される。それだけは絶対に嫌で、私は今までずっと頑張って逐一感情を言葉にしてきた。共有するために。寂しくならないようにするために。
でもこの期に及んでまだ私は、私の感じた感情が本当にみんなの思うその感情なのか自信を持てなくなる。小学生のころ嫌われたくなくて、人気者になりたくて、友達の見真似で頑張って身につけた感情。私が思っている"悲しい"は、本当にみんなの"悲しい"なのだろうか。私が思ってる"楽しい"は、本当にみんなの"楽しい"なのだろうか。多分違う。人それぞれ違う。そしてそれは永遠に共有できない。
悲しいとか楽しいとか思う前の、もっと純粋で高邁で美しい感情があるはず。感情という名称すら当てはまらなくて、言葉にしたり、理由をつける前段階の何か。私たちが私たちの中で感じたこと、漠然としたソワソワ感みたいなのは、多分本当の意味で純粋なもの。理由をつけるのはナンセンス。でもそしたら説明ができない。こんなに心揺さぶられるソワソワを共有できないの、寂しい。あくまで人は皆、全員孤独ということをはっきりと思い知らせる。私のソワソワもまた、私だけのもの
2020/05/09
泣きたくなることを一つ一つ忘れないように
- 涙の数だけ強くなれるのかな。人より苦しい人は優しいのかな。私はいつ幸せになれるのかな。先のことはわからないね。
2020/05/09
小さな生命はひかりに引き寄せられた
- 虫を殺した。暗闇である私の部屋の光源はスマホだけで、それにおびき寄せられたのであろう愚かな小蝿を指で潰した。こんな汚いスマホが発するまやかしの光に寄ってくるなんて、本当に馬鹿な生命だわ。愚かで馬鹿げていて滑稽だけど、それは確かに生命。ほんの少しだけ、殺したことを後悔するそんな夜
2020/04/02
人は鏡だから
- 私には、仲の良い友達がいる。優しく接している友達がいる。大切にしたい友達がいる。それはつまり、相手も私のことを「仲がいいひと」と認識しているし、相手も私に優しいし、相手も私を大切にしてくれているから。どうしようもなく自分がいやな奴に思える時は、こういう風に考えるようにしている。私のことを評価してくれる大切な友達を、疑っちゃいけない。大切なあの人が大切にしてくれている自分を、私が大切しないなんて駄目だ。
何かしらのことで失われた自分への愛情は、自信は、勇気は、自己肯定は、人間関係の中で取り戻すしかない。自分が大切にしている人の人数分、自分も大切にされているはず
2020/03/08
we need something to lean on
- 今日のODは上手くいかなかったから、呼吸が難しい。肺に空気を入れようと意識しないと苦しくなる。普段無意識で出来ていることが、当たり前のようにしていることが、出来なくなる。普段の自分偉過ぎるくないか?俺を生きしてるだけで褒めよう
2020/02/15
みんななくして笑ってやるよ
- 小学校高学年頃からずっと非現実を追い求めながら生きてきた。非現実は自分の身に起こった瞬間に現実に成り下がってしまうのに、空想の世界で妄想する快感に取り憑かれてしまったからか、もうその生き方をやめられない。しんどいなぁ。それ、もう、既に私じゃないのに。こんなに無意味なことあるだろうか。自分じゃないもの使って、あたかも自分かのように空想するって、ひどいオナニーだ。
自分のこと、世界で1番嫌いって思う時と、世界で1番可愛いって思う時が交互に(または同時に)くる。でもよくよく考えてみると可愛い時の私って、本物の私じゃない。理想化した非現実の私だったりする。そうなると「じゃあ自分って一体なんなんだ」とまた答えのない思考に絡め取られてグルグルしてODしてしまう。アホみたいに言い古されたチンケなフレーズだが、いつだって人は答えのない問題に苦しむ。東大生だって安倍晋三だって隣の汚部屋に住む顔も知らない住人だって、自分の他の全ての問題を棚上げして、生きる意味について考える時間があるはず。だからといってその事実によって別に私に勇気は湧かないけど。
たぶん私は自分を無条件で愛してくれる人をずっと探しているんだろうな。愛するまででなくとも、受け入れてくれる人、とか。それはもはや恋愛対象じゃなくて家族みたいな、何があっても自分の味方でいてくれる人。友達では超えられない線を超えた人。枠のこっち側に入ってきてくれる人が欲しい。
そもそも自分が愛せない自分を愛してもらおうなんて都合良すぎるし、他人を受け入れるつもりもない癖に受け入れてもらおうなんて、ちゃんちゃら可笑しいんだけど。絶対にそんな人現れない(非現実)って分かっているからか、その矛盾が自分自身でもちょっと好きだったりする。そこも含めて妄想芸人だよなあ
とりあえず家族になってくれない彼氏はいらないということ
2020/02/14
depth
- Capsuleの曲は近未来を感じる。かけ離れた未来じゃなくて、手が届きそうで届かないような、ありそうで無さそうな、手ごろで身近な未来。中学生の頃、私は私の近未来を願ってCapsuleの曲を聴いていた。何になりたかった私なんだろう。
昔の感情を思い出そうとすると「何かになりたかった私」を思い出す。そう、私は何かになりたかった。常に渇望していた。小学生のときになりたかった私。中学生のときになりたかった私。高校生のときになりたかった私。全部違う私だった気がする。そして、それぞれの私がどんなかたちをした私なのか、その肝心な部分は中々思い出せなくて、頑張って記憶の糸を辿ってみるけどいつも輪郭がぼやける。ただ一つだけわかるのは、少なくとも今現在の私のかたちとは違うということ。昔の自分が思い描いた私のかたちに、今の私はどれだけ近いわたしなんだろう。過去の気持ちについて、渇望しか思い出せない私は虚空すぎる。結局そこにあるのは常に夢だけ見てるわたしで、22年も掛けて何もない空っぽな人間が出来上がってしまった気がして、焦ってしまうな。ほらこの期に及んでまだ私は何かになろうとしている。努力もせず、勇気もなく、ただいい加減に未来に期待している。いい加減目を覚まして今を生きてよ私
2020/02/11
育児
- 生きていて、死にたいって思うことがある人がいる。多分きっかけは些細なことの積み重ねで、もしかしたらはっきりしない場合もある。「今日のあの人からのこの言葉が原因」って、理由が明確にわかる時もあれば、理由なんて分からないまま真っ逆さまにグチャグチャに落てしまう時もある。そんなつもりで呼吸したんじゃないのに、ふと息をついてみた時に、もうダメだってなる。そして、にっちもさっちも行かない、死にたいなんて、世の中にはそんなこと思ったこともない人もいる。でも、思う人もいる。当たり前だけど、思う人たちは生きづらいよね。思わない人で生まれたかったけど、そんなのはもう無理だから、付き合い続けるしかない。あなたがどんな私かはわからないけど、人生は、私の面倒を見続けること。私を育て続けること。家族すら、他の誰もは自分にとって一切他人だけど、私だけは私の親であり続ける
2020/02/05
生を自分で定義しろ
- 人はしんどくなると、1人になってしまいがちだよね。それは他人から自分を守る為であったり、自分から他人を守る為であったりするんだけど。どちらにせよあなたは何かを守っているから、偉いよ。それは立派な強さだ。何かを守ることは生きることだ。生きることは何かを守ることだ。大丈夫、ちゃんと生きれているよ、私たち
2020/01/26
連続性から目を背けることは甘えなんだろうか
- いつも未来の自分に期待してる。今の自分じゃなくて、6時間後の自分、明日の朝の自分、1週間後の自分、1ヶ月後の自分、半年後の自分。今できないことも、明日には出来るようになっている気がする。受験勉強みたいな反復的で継続的な学習をしてると特にそんなことを思ってしまう。甘え以外の何者でもない。辛いね
2020/01/09
私を深刻に殺すまで
- 正しい人は嫌い、っていうのはあまりにも枠が広すぎてしんどいから、ちょっと変えてみることにした。正しい人は嫌い、から、正しいことに自信がある人は嫌い、に最近変えてみた。これによって生きやすくなるかどうか、ちょっと試してみよう。
親密な人間関係を築くときには、相手と自分の間に共通の価値基準がないと難しい。そのときにとても便利なものが、(私にとっては非常に残念なことに)正論だ。そして正論は多くの場合「常識」「一般」「普通」という枕詞が伴って語られるから(「常識的に考えてさ〜○○○(正論)」というフレーズは会話の中でよく使われるし、私自身もよく使っている)私の中で正しさはこれらの言葉と同義になってしまっている。悲劇だ。
もちろん、私は上記のような一般論で塗り固められた正義を私に突きつけてくる人が大嫌いなんだけど、他に共通の価値観がない場合はしょうがなしにこれが使われてしまう。そして、他人からの言葉で一番傷つく形態である客観的事実として自分がクズだと思い知らされ辛くなる。この繰り返し。22年間ずっとこればかりを続けてきた。毎日相手からされてきたし、毎日自分もしていた。だからもうそろそろ、これが仕方ないことという覚悟は出来た。
ならばせめて、あなたのその客観的事実に、あなたは確証を持たないでほしい。自信満々で正しいことを言わないで。それか、「私はこう思う」という確固たる自信を持っていたとしても、私の不真面目さを許容する隙間を意識的に作ってやってほしい。私の不真面目さをほんのちょっとだけでも理解してくれる、そんな自我のゆるさを持っていてほしい。私の自我の境界はガバだから、(無い物ねだりで)確固たる自我を持っている人に憧れるし殺意も抱く。しかもその殺意は自己防衛、殺されるから殺すだけ。正論は私を深刻に殺すから、そして私は自分を深く傷つけるであろう正論から自分を守るためにあなたを一生懸命に殺すから、あなたには私に優しくして。頼む。正論がない私には感情しか残ってないの
2020/01/06
静寂にて探すピース
- 生きながら自分の感情が全然定まらない。日々の生活の中で「これは怒り」「これは悲しみ」「これは戸惑い」みたいにその時々の感情を即座にバチっとハメながら生きるの、あまりに難しい。特に人と会話している最中はそう。事象と、それに対する感情を自覚することが、同時進行では出来ない。絶対にタイムラグが生じる。
つまり他人と話している時に自分で自分の感情が分かってないということ。
わかんないから、当てはまりそうな適当な感情を適当に示すことで毎日をやり過ごしている。答えのピースが自分の手持ちデッキにないから、「一般的にはこうだろ」「常識的に考えたらこうだろ」と類推して、いちいち厚紙を目分量でピースの形に切っている。厚紙を切る作業はアホみたいに遠回りで億劫だが、物心ついてから22年間も続けていれば、普通の人が自分の中からピースを探すのと同じくらいのスピードで(会話の相手に違和感を与えないくらいには)こなせるようになった。そうしているもんだから、私はいつの間にか自分の本当の感情を見失いがちになってしまった。
自分の中の信条として『布団の中の自分は仮死状態カウント』というものがある。布団の中の私は生きていない(時が止まっている)から、一旦落ち着いた状態で自分のピースを探すことができる。最近はタイムラグをとりあえずほっといて(後回しにして)溜め込んでしまうので、夜の反省会に回される課題が膨大な量になってしまう。嫌気がさしつつも、その日にあった膨大な事柄と、付随する感情を想起して、整理する。先程生成した歪みだらけの即席厚紙ピースを元に、私由来の天然私を使用した100%私成分の私産ピースを発見・生成する。そうして初めて「あぁ今考えてみると私あの時ムカついてたんだ」と納得する。
自分の中に眠る、自分が納得できる本当の感情は、生きているうちには到底見つからないと思う。見つけるには生はあまりにも騒がしすぎる。より深い答えを求めるなら、より深い静寂が必要になる。完全なる私のピースは、私の死の中にしか存在しないのかもしれない。
2020/01/03
だれかの死を定義してあげられたら、それはもう神だ
- 殺されること想像したらめちゃ怖いに決まってるじゃん。でも自分で死ぬことは想像してもそれほど怖くなさ気よね。側から見たら同じ死だけど、同じ命の終わりだけど、でも全然違うものだ。結果だけを論じることは「正しい」けれど、その「正しさ」こそが日本社会に閉塞感を生み、日本に生きるすべての人々を苦しめて、多くの人間を殺してるんだよ。死の要因に対する想像を掻き立てないといけない。私たちの想像力の欠如が、人を殺す。人生なんて死によって総括されてるようなもんなんだから、ちゃんと考えてあげようよ。生きた意味を死人に与えなきゃ、その人が生きたことにならない。死人にすらなれない。無だけはいちばんやっちゃダメだ
2019/12/31
真綿で首を絞めるような
- 呼吸がし辛い夜の条件がいくつかある。あまり仲良くないひと達がいるグループLINEで発話したり、バイトで自分なりに気を使って頑張ったことが評価されなかったり、自尊心が高い人のそばにいて苦しくなったり、私は彼氏が一度もいたことが無いのに彼氏の自慢をされたり。こういう条件が不幸にも揃ってしまった夜には、しこたまコデインを摂取してサイトとか仲の良い人だけフォローしているTwitterとかに潜り込む。私の本名から私を隠してくれる場所に。コデインは隠れている私を正当化してくれる、なんともありがたい化学物質で、劣等感だらけの思考回路を幸せな気持ちにしてくれる。酒なんかよりずっと楽しい。他人から見たら立派な薬物依存なんだけど、薬中の口からあえて常套句を言わせてもらうとやめようと思ったらやめれます。なくても生きていけるし、本当に死にたい時にはODはしない。優しい気持ちになりたいときに、自分の心の中でひどい言葉で他人を傷つけたく無いときに使うの。ODは私の気遣い。だから許して
2019/12/29
母なる海へ 私より
- 私は女の子が好きなのかもしれないって思うことがよくある。
小さい頃、森下裕美の「夜海へ還るバス」という漫画を読んだ。女性が好きかもしれないと悩む女性を描いた物語。同性愛をテーマにしたその内容は、当時の幼い私には未知の世界過ぎた。その時の私は、まだ社会のことを何も知らなくて、性がなんたるか、自分の性が社会の中でどういう立場で、どういう意味合いを持つのか全く分かってなかった。だから主人公の感情描写に対してもどこか他人事で、全く、1ミリも理解できなかった。あの頃よりは少し大人になった今ちゃんと読み返したら、何かしらの答えが得られるかもしれない。かもしれないけど、読むのがとても怖い。主人公は、森下裕美は、女の子とセックスできる可能性を22歳の私に示してしまうかもしれない。それは何者にもなりたくないし、何者にもなりたい私にとって、救いであり絶望なんだけど、わかるかな
2019/12/28
Romanticism
- 小4のとき、私は泉京花ちゃんと友達だった。彼女は一人っ子で金髪のお母さんと明らかにカタギじゃない風貌の義理のお父さんとカーテンが締め切られた薄暗い貸家に住んでいた。靴が散乱した玄関、ボトルガムの中身が散乱した机の上、テーブルの下に雑に落ちていた算数の90点のテスト、リビングから開いた扉から見えるダブルベットの寝室。それら一つ一つがあまりにも私の家と違いすぎて鮮烈に覚えている。「本当のお父さんはお金持ちで今は別の女の人と暮らしているんだ」って笑いながら教えてくれた京花ちゃん。私は彼女のことを一生忘れないと思う。
糖尿病だった京花ちゃんのお母さんは泉鏡花を知っていたのだろうか。泉という苗字は、本当のお父さんと義理のお父さん、どちらのものだったのだろうか
2019/12/26
「神がいなければ、全てが許される」
- 宗教は信じるものだけを救うから、キリストは私を救わない。私を救わない神はケチだよ。神の自己肯定感どうなってんだよ。信仰していない人間すら救ってみろよ。自分とは違う意見のやつすら救うくらいの器のデカさ見せてみろよ。全員を救えないなら神なんてやめちまえ。東方正教が流行りまくってた時代のロシアで上記のように言い放ったドフトエフスキーはキリスト教信者じゃ無かったんだろうか。私は大森靖子の信者だった。そして大森靖子は私を、全員を救える神じゃなかった。神なんて、信じなきゃよかった
2019/12/20
(感情のステージに上がってこい)
- 楽しい思いをしながら死ねば、楽しい人生だったことになる気がするし、苦しい思いをしながら死ねば、苦しい人生だったことになる気がするし、安全でないところで死ねば、普通じゃない人生だったことになる気がする。終わり良ければ全て良しなんて本当に上手く言ったもので、人生の本質はまさにその言葉に集約される気がする。結局死ぬときに自分がそれまでの自分の人生をどう思うかだよな
誕生日の朝9時に起きてずっとBL読んでた。別に誕生日を祝ってもらおうとか、SNSでアピールしたいとかそういうのもなかったけど、BL読みながら少し後悔したのは、もっと前からあらかじめ死ぬ準備をしておけばよかったということ。誕生日の日に死ねたら特別感ない?側から見て「22歳丁度で死ぬなんて、ちょっと面白い人だったな」って思われる(かもしれない)し、私は私で「面白いと思ってもらえるような人として生きれた」という自己満足も得られて。まさに「終わり良ければ全て良しの本質」になれる気がして。それで即席で死に方を考えてみたけど、どうしても思い浮かばなかったので、考えることをやめて無心でBL読んだ。そんな意気地もない。来年はもう少し作戦を練って迎えたい、23歳
2019/12/20
途中で席を立つ、フィナーレは見ず
- 夢で何度も見る風景がある。私はそこに行きたいんだけど、夢の中だから絶対に行けないんだ。 羨望する光景は過去の記憶に裏付けられた絶対に辿り着けない場所。そこは誰にも邪魔することのできない、私のための私だけの秘密基地。自分のことを何も守ってあげられてないけど、せめてここくらいはちゃんと守り続けていきたいね。
2019/12/16
希望を殺してゆくとき、私の人生は輝く
- 朝が来る前に、自分が生きる意味を一つ一つ潰していく。手折られた花が美しいのはそれ自体が希望が潰えている様だから。日が登る前に、みんなが息を吹き返す前に、ガッチリおれの息の根を止める。夜のうちに呼吸して、朝止めて、また夜になるまで止め続ける。新鮮な空気は今しかない
2019/12/11
僕たちは迷い続けている
- 小学生の時にニコニコ動画で見つけた静止画を組み合わせただけの5分くらいの動画。薄暗い森林の中の写真から始まって、家に帰るまでの道が20枚くらい淡々と続くだけの動画。最後は家のトイレで終わる。タイトルは「僕たちは迷い続けていた」みたいな感じだった。ずっと探しているんだけどどうやっても見つからない。中学生の時にエムブロで見つけた個性的なブログ。過激なことが書かれている時もあれば、ただ淡々とコメントもなくオススメの動画が掲載されているときもあった。私は彼女の感性が大好きだったんだけど、ある日突然「やすだのたんじやうび」とだけヒントを残して鍵をかけてしまった。私はどうしてもそのブログを読みたくて、一生懸命検索してどの安田さんかを突き止めた。彼女はどうやら安田顕が好きらしかった。その動画も、このブログも、本当にあったのか、私の妄想なのか今となっては知るよしもない。あるかどうかもわからないけど今も私は探している。今も「僕たちは迷い続けている」それだけ
2019/12/11
会える一回きりの夢を見てる
- 私はやっぱり文章をこねくり回すのが好きだし理論的かどうかよりも自分が納得するかどうかに重きを置いているから自分の考えを顔の見える他人に伝えないほうが良い。伝えられた人が迷惑だからさ。同意してくれない顔の見えないあなたに伝えたい。もしたまたま、私の書いた文章にあなたが共感してくれたら、その一回だけ私に通じてくれてありがとう
2019/12/09
どんなに下らないことだって、自分にとって救いであれば大丈夫
- 「あなたにしか分からない痛みが確かにあって、あなたにしか救えない人が確かにいる。」他人のために生きる必要は勿論無いけれど、かと言ってありのままの今のあなたが他人から必要とされていない訳では無い。今までいっぱい傷ついてきたあなたは、誰よりもいっぱいの人の痛みをわかってあげられる、優しいひとだ。生きる意味にもなりうるそのことを、どうか忘れないでいて。
2019/12/04
.
- サイトが突然消えた理由は分からなかった。初夏頃からツラツラと書き溜めていた自己満文章が急に消えて割とショックだったのを覚えている。私は自分のオナニーに満足しているから、自分の書いた文章はいつ読み返してもめっちゃ共感できた。書いて読み返すという二重の意味で本当に立派な自己完結オナニーだったわけだけど、ランクとかに登録して人がちょっと見てくれるようになって、拍手とかもらうと嬉しくて、でもありのままの自分の気持ちを描き続けたくて、そんな葛藤が私にとってはとても価値あるものだった。
たまにランクの上位に載るような文章を書いてみようかなとか思うんだけど、結局そんなことを思える時って大概調子がいい時で、そういう時に書く文章って本当におもんなくていっつも後から消してた。死ぬほど苦しい時とか酔っぱらったときとかODしたときに書く文章は、いつ読み返しても「そうそうそれそれ」ってなるのに。やっぱり苦しい時に感じたことはどんなに汚いことでもみずみずしく尖ってて最高なんだよね。生きていく中で「傷つき続ける」ってのは、その人の人生に最高の切れ味と輝きをもたらしてくれるスパイスなのかもしれない。できることなら傷つきたくは無いけど、どうせいちいち傷つき続けるなら、後から振り返った時に自分にとってプラスだったと思える方がいいし、思えるものにしたい。そうでしもしなきゃ、最後に残るものは本当にただの苦痛だけになってしまう。もし死以外に救済があるなら、このか細い自己生成型完全私由来の希望の中にしかない
2019/12/04